「引きこもる知恵」髙橋淳敏 へのコメント http://ns-kansai.org/column/voice/post-7405 「家族を開く」ことで引きこもり支援をしています Fri, 15 Nov 2024 10:13:31 +0000 hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.0.22 おほほ太郎 より http://ns-kansai.org/column/voice/post-7405#comment-117179 Fri, 27 Dec 2019 01:44:35 +0000 http://ns-kansai.org/?p=7405#comment-117179 正直、文章の1割も理解できなかった。
引きこもりの人は、学校に行ってなくて無学の人も多いと思う。
もう少しかみ砕いて書いてもらえないだろうか?
誰に向けて書いているのかな?

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Funabaka22 より http://ns-kansai.org/column/voice/post-7405#comment-117136 Thu, 26 Dec 2019 15:15:58 +0000 http://ns-kansai.org/?p=7405#comment-117136 次の文を課題として ⇒ に感想を述べさせてもらいます。
「すでに他人事である」のならば、「社会」は引きこもる行為をこそ先鋭化させていくことになるだろう。そのような社会で必要となるのは、「ひきこもり」を労働者や生産者のような主語の置き換えを図って、無理やり「働かせる」ことではない。引きこもる知恵によってだけ、他者と出会える。

⇒ひきこもる、引きこもる知恵にはどうしたら出会えるのだろう?出会う他者とはひきこもることから抜け出た自分の姿なのだろうか?他人事である引きこもりの姿がそれこそかつての独裁者に対するパルチザンのように、社会的な意味と権威をもつようにその行為が先鋭化してゆけば、他者としての社会的な自分に出会えるのであろうか?または、引きこもるという周りをも飲み込む求心力がその社会での必要性を人々に認識させ、それらの人々の視線による異なった社会での当事者としてのすがたを像として結べるのであろうか?ここでは、大変実直に考え、引きこもる「知恵」を動詞の修飾するものとして捉え、親や社会の何に関して反対して、または、自分の時間を取り戻したいために、などの修飾形態に向き合うことにより身に沿う他者に出会えるのだろうか?少なくとも、理を持ち込まず智のフィールドで当事者としての出会いに徹するということは理解できた。
ありがとうございます。

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