「子どもを社会で育てるには」髙橋淳敏 へのコメント http://ns-kansai.org/column/voice/post-7366 「家族を開く」ことで引きこもり支援をしています Mon, 08 Apr 2024 12:15:25 +0000 hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.0.21 Funabaka より http://ns-kansai.org/column/voice/post-7366#comment-113857 Mon, 02 Dec 2019 08:44:53 +0000 http://ns-kansai.org/?p=7366#comment-113857  今更振り返り思うことの意味は正直見い出せないが、確かに団塊の世代の社会では、若者が若者として淡くとも多様性をもったまま社会に参入してゆくことが普段に認められていた。少なくとも阻まれることは常ではなかった時代であった。
 都合の良い論調で自らを恥じるところではあるが、いまここでは、これからを考え、人々の多様性の回復に観点を移すことは卑怯なのであろうか、外国人受け入れなどという単純な観点ではなく、本稿で指摘されたように人の生活をコストとして計算し、労働を商品として扱うそしてそのことにより生産性を追求する社会の過程において、多様性を排する偏見と差別にこそ問題があったのではないかという問いかけである。
 現代の不登校と称する子供への学習支援についても、活動としての表面の実効評価にあせり、学習たるものの内容ではなく、引き出しの方法を目的として活動することに行き過ぎているような気がする。既に、東京の例では企業論理、共創の論理たるものも導入され、対象としての引き出し自体がまず第一の目的となっているようだ。本当に、子供達が自由に、自然に学校に親しむ気持ちを回復してもらうには、一人ひとりの学校との関係性を確かめる必要があるものと考える。さすれば、多様性の内に地域がこれを担うことが適当なのだろうと思うが。

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